<提言要旨> | 【 教育心理学の立場から 】 | |||
子どもにとって文字が書けることは、就学前・就学後を問わず重要な発達課題である。文字をを書くことに抵抗があったり精神的疲労があると、書字能力の低下を招くだけでなく、学習能率や学習意欲にも影響を与えるからである。したがって、子どもが文字を書くことの基本を身に付けることは、特に、書字学習の入門期において大切になる。 現在の書写書道教育において重視されている筆記具の正しい持ち方、筆順、字形について、就学前後の子どもを対象として実証的に検討した結果、次の点が明らかにされた。
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<提言要旨> | 【 書写・書道教育の立場から 】 | |||
「文字を手書きする」ということが失われるとき 今、PCを前にして提言要旨を打っている。「書いているのではないのか?」という声が聞こえる。しかし、紛れもなく・・・「打っている」のだ。便利な時代になった。文書編集は極めて容易で、印刷キーさえ押せば瞬時に印字されてプリンタから排出される。 この便利な機器を操らせる能力を、どこで習得したのだろうか。機器の操作については独学であった。しかし、適切な文字活用や変換キーを押させる主体的な自分は、明らかに「文字を手書きしながら習得する」という体験の中で形成されてきた。情報機器にさえ入出力というシステムが存在する。にも関わらず、書写・書道という分野では出力面に関心が偏りがちで、定着や認識、そして活用能力という入力の部分への焦点化が遅れがちである。 「何のために書くか?」との問いがある。入出力との視点で考えれば、「人間が他者のために書く」と「人間が自己のために書く」という2面からの答えが用意されなければなるまい。この「伝達・記録のために書く」と「定着・認識のために書く」という関連が喪失され、「文字を手書きする必要がない便利な時代になった」との短絡的な意識が蔓延するとき、人間は文字そのものを失ってしまうのではないだろうか。 |
<提言要旨> | 【 認知科学の立場から 】 | |||
タイトル:「二つ以上」─知覚と行為の原理─ 行為が進んでいく時には「二つ以上」のことへの注意が必要なようです。光の感覚のない盲人のナヴィゲーションについて歩いた経験があります。例えば新宿東口では、この街を貫いているJRの列車音と、今いるところの音の両方に同時に注意を払うことで目標への経路が探られていました。おそらく視覚障害の無い者は二つ以上の景色の関係をそのように使用しているはずです。ナヴィゲーション行為とは複数の音や見えの景色を同時に利用できるようになることのようです。 行為する身体にも「二つ以上」のことを発見できます。肩以下が麻痺した頸髄損傷者が半年かけて靴下をはくようになる過程を観察したことがあります。転倒しないように平衡を調整し続けながら、足先と手先を接近させ、柔らかくて扱いにくい物を操作すること。これらを一気にすることが靴下をはくということだということがわかりました。靴下という材料を得て、身体がしたことは、種々の動きの働きをどのように物に向かって同時化・組織化するかということの工夫でした。 「二つ以上」を同時にするということが知覚と行為の原理のようです。生態心理学のアフォーダンスはこの「二つ以上」と関連しています。私には文字を書くということにはその種が十分すぎるほど詰まっているように思えます。文字を書く行為においてどのような「二つ以上」が発見されているのか、会の皆様に是非伺いたいと思います。 |
<提言要旨> | 【国語・日本語教育の立場から】 | |||
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<提言要旨> | 【メディアと文字を書くこと】 | |||
コンピュータで文章を書くとき、私たちは意識しているわけではないが、必然的に二重三重のデジタル変換をしている。シンボルをデジタル還元したうえで再現するという技術は、映像や音声にも適用できるし通信にも乗る。私たちはその便宜を享受しているが、そこから私たちの内に、書くことに伴うどのような心性が新たに生じるのだろうか。ウォルター・オングによるオーラリティとリテラシーの比較分析からヒントを得てみたい。 また、デジタルな「書き」において、テキストはそれを保存し開くたびにコピーされる。文字は際限なくコピー可能。サーバーへファイルを送るのもコピー行為。誰かがある時間にある場所で書いた文も、他の誰かによるコピーに次ぐコピーの結果、誰のものかも分からなくなる。その誰かは「誰でもない人」になり、そのどこかは「どこでもない場所」になる。これは、ハイデガーが分析する「現存在の非本来的あらわれ」のひとつである「かれら性」によく似ている。コピーが原則の世界では、源泉は消滅し、同一性は溶解する。筆で書く書の世界、古美術の真贋の世界とデジタルなネットワークとは別々の世界である。 そのうえで、ご提言の先生方におたずねしたい。
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